川上牧場研修【共進会の歴史】
2021-10-10 配信|川上牧場 酪農データバンク
この回の要旨
共進会の歴史をたどると、体高132センチの牛が70年ほどで別の生き物のように大型化し、審査のやり方や講評の言葉づかいも大きく変わってきたことがわかります。川上さんは、共進会を単なる趣味ではなく、飼養管理の集大成であり牛群改良につなげる場だと捉え、これから酪農を始める人にも歴史を知ってほしいと語りました。
この回の要点
- 共進会は明治から続き、平成にはナショナルショーへと発展し、審査員も酪農家の投票で選ばれるようになった
- 第1回全共の1951年当時は、田畑を耕す役乳兼用牛が出品され、体高も132センチほどと今よりずっと小さかった
- 昔の審査はピラミッド型で、講評も「遺憾であります」と地域を叱る厳しいものだった
- 人工授精以前の自然交配の時代から、凍結精液や牛群検定を経て、日本ホルスタインは世界トップクラスの生産能力に達した
- 共進会は美人コンテストのような側面を持ちつつ、飼養管理の集大成であり牛群改良につなげる本来の目的がある
配信の全文(podyの記事より)
共進会の勉強、まずは歴史から
今回の配信は、月替わりのテーマとして「共進会」を取り上げた回です。川上さんは以前から研修生を受け入れていて、搾乳前の休憩に研修生の質問に答える様子をそのまま録音しています。
本当ならコロナがなければ、共進会の勉強に加えて毛刈りのやり方なども教えたかったそうです。ですが今回はまず、共進会がどんな歴史をたどってきたのかを学ぶところから始めています。
川上 (今月は)共進会のお勉強ということで、今日は共進会です。
共進会 家畜の体型や資質を出品して審査・比較する品評会のこと。乳牛の共進会では、体格や乳器(乳房)などの体型を審査し、順位づけを行います。牛群の改良の到達点を確かめる場でもあります。
題材にしているのは、ネットで検索すると出てくる北海道の乳牛共進会の歴史や、北海道ホルスタイン農業協同組合の資料などです。気になる人は自分でも調べてみてくださいね。
明治から続く北海道の共進会と、外国人審査員
北海道の乳牛共進会は明治39年に開催された第1回北海道畜産牛共進会が始まりです。その後も数回開かれましたが、当初は定期的なものではなかったそうです。
昭和30年からは約4年に一度、北海道が総合畜産共進会を主催するようになります。川上さんは「昭和で言われるとちょっとわからないな」と、正直な感想もこぼしています。
平成8年には札幌で第9回世界ホルスタインフリージアン会議が開かれ、それに合わせた共進会は出品地域を道外や国外にまで広げました。現在の北海道ホルスタインナショナルショーへと名前を変えて開催されるようになったそうです。
審査員についても変化があります。当初は体格審査員が主に担当していましたが、昭和48年に初めて酪農家による審査が行われました。今では組合の要項に基づき、出品者の投票で審査員が選ばれています。過去には外国人の審査員も招かれてきたそうです。
資料に載っている歴史の写真を見ると、最初の頃の牛は「ずんぐりむっくり」で、そこから改良が進んだことがよくわかると川上さんは話します。
川上 最初のやつはすごいね、ずんぐりむっくりの。これが改良ですね。本当に歴史がわかるなと思いますね。
親父さんと町村牧場のつながり
共進会の話の途中で、川上さんは自分の家の歴史にも触れます。牧場に飾ってある賞状のような写真をきっかけに、義理の父にあたる「親父さん」の若い頃の話が出てきます。
親父さんは北海道の町村さんという有名な牧場に研修に行っていたそうです。共進会の歴史をたどると、こうした個人のつながりも一緒に思い出されるのがおもしろいところですね。
川上 うちの親父さん、この町村さんっていうとこの牧場(に)研修に行ってたんですよね。有名な方です、町村さんって北海道のね。
乳も搾り、田畑も耕した「役乳兼用」の時代
第1回全日本ホルスタイン種牛共進会は、戦後復興のさなかの1951年、神奈川県平塚市の平塚競輪場で行われました。当時のクラス分けには、今とは違う独特の区分があったそうです。
第1回では年齢による括りがなく、雄牛の未経産・経産、雄牛の部、そしてホルスタイン種系雌雄牛の経産の部という4区分でした。この「種系雌雄牛」の部に、当時の時代背景がよく表れています。
川上さんはここで、研修生に「役用化」という言葉の意味を説明します。トラクターがなかった時代、牛が農機具の代わりを担っていたことを、かみくだいて伝えています。
川上 トラクターとかなかったから、田んぼとか畑とか耕すのに牛が、トラクターの代わりみたいな感じで、農機具を背負ってわしゃわしゃ歩いて耕してたんだけど、それをしながら牛乳も搾るっていって。
役乳兼用牛(役乳両用牛) 乳を搾るだけでなく、田畑を耕したり車を引いたりする労役にも使われた牛のこと。トラクターが普及する前の時代に、農作業と搾乳の両方を1頭で担っていました。
資料には、搾乳をしながら田畑を耕し車を引くホルスタイン種系の役乳両用牛が多数出品されていたと書かれています。種系ということから、エアシャー種の特徴を持つ牛もいたようです。
体高132センチの牛が、70年で別の生き物になった
当時の審査は「足尺審査」と呼ばれる、体の各部位を測定するやり方でした。体高や体長など11か所を測り、体高を基準にした比率で牛を評価していたそうです。
資料の審査講評には、体調率123.9、体高132センチ、体長146センチという表現が残っています。川上さんは、この数字の小ささに驚いています。
川上 132センチって言ったら全然ちっちゃいでしょね。今のホルスタインだって見上げるぐらいのがほとんどで。
今の共進会に出るような大きな牛だと、体高170センチや180センチもめずらしくないそうです。50センチほども差があることになります。
1951年から今まで、およそ70年から80年。その間の改良を振り返って、川上さんは別の生き物でしょ、本当にと表現しています。
別の生き物でしょ、本当に。 ── 川上
共進会の牛の体型の変化
BEFORE
1951年ごろ。体高132センチほどの、ずんぐりむっくりした牛
↓
AFTER
現在。共進会では体高170〜180センチもめずらしくない大型の牛
ピラミッド型の審査と、今も残る和牛のやり方
審査の進め方も、昔と今ではずいぶん違います。第1回では、まず1頭ごとにあらゆる角度から目視で個体審査を行い、その後で牛を直立させて比較する方式でした。
当時は今のような歩行審査はなく、優劣の比較だけで順位を決めていたそうです。上位牛はその場に残り、下位牛が下がっていって、最終的にピラミッド型の並びができあがります。
川上さんによると、和牛の共進会は今もこのピラミッド型に近いやり方だそうです。整列して、勝ったら前に進むという形で審査が進みます。
川上 昔はだからホルスタインもそういう感じで審査してて、歩かせて歩様の動きとか、そんなのはやってなかったってことですね。
第2部の経産牛クラスの最終比較では、競輪場の周回コースにずらりと牛を並べ、最上位から最下位までの序列を決めたそうです。歩様を見る今の審査とは、前提そのものが違っていたことがわかりますね。
「遺憾であります」と地域を叱る、昔の審査講評
川上さんが特におもしろがっているのが、昔の審査講評の言い回しです。今の講評とはトーンがまるで違うと話しています。
第1回の審査講評では、地域別に牛の出来を評価しています。北海道は頭数も多く大部分が上位に入賞し、乳牛主要地帯としての面目を発揮したとされています。
一方で、伝統ある千葉県が不振だったことは「遺憾であります」、関西・中国・四国・九州が低調だったことは「残念であります」と、かなり厳しい言葉が並んでいます。
川上 伝統を誇る千葉県が不振であったことは遺憾であります。遺憾でありますって言われるってショックだよね。
今の審査員はリスペクトを持って褒めたうえで、ここを直せばもっと良くなると助言してくれると川上さんは言います。この違いには、昔は地域どうしで競い合っていた歴史が表れています。
川上 昔はだから地域別で(争ってた)。北海道、東北(の)県とか言って、そこで競い合ってた歴史があるってことね。
昔と今の審査講評のちがい
昔の講評
地域別に評価し、不振な県には「遺憾であります」「残念であります」と厳しく指摘する
VS
今の講評
個体をまずリスペクトして褒め、そのうえで改善点を助言する言い方をする
名誉賞の牛に市民が殺到、そして繰り返す生産調整
当時の資料からは、牛乳が今のように流通していなかった時代の様子も見えてきます。名誉賞をとった北海道の牛舎には、市民が殺到したという記述があります。
川上 立派な牛の乳はどんなにいいものだろうと、一升瓶を持った市民が殺到したって。
牛乳をお店で買うのではなく、近所の人が牛舎までもらいに行くような時代だったのだろうと川上さんは想像しています。
さらに、北海道と本州それぞれに向いたホルスタインが必要で、北海道が自分の方だけを強調しすぎると自分の首を絞めることになる、寛容が必要だ、という記述もあります。
これを読んで川上さんが思い出すのが、最近の生産調整のニュースです。歴史は繰り返すという感覚が、資料と重なって見えてくると話します。
川上 やっぱ歴史を知っておくと、なんかね、いろいろ感じれるものがあるなと個人的には思うんだけど。
日本ホルスタイン種の確立へ、血統と種系改良
第2回全共は1956年に開かれました。この頃もまだピラミッド式の審査でしたが、クラス分けは細かくなり、血統の考え方が出始めています。
資料には、種系の改良が進めば将来的に日本ホルスタイン種として扱われる日が来る、という展望が書かれています。純粋種の改良も必要だが、種系の改良こそ最も必要であり、それなしに酪農の発展は望めないという強い言葉です。
石川県から純粋種に劣らない立派な経産牛が現れたことや、乳器特別審査で種系が第1位を得たことが、種系改良の成果として書かれています。血統への意識が高まっていく過渡期だったことがうかがえます。
第3回で近づく、今の審査講評のかたち
第3回全共は1961年、昭和36年に開かれました。この頃の講評を読むと、川上さんは今の審査講評に近づいてきたと感じるそうです。
講評では、出品牛全体で上下の差が少なくよく揃っていること、従来の欠点だった姿勢の悪さや尻の下がりが減ったことが評価されています。一方で、肩が不良なもの、乳頭の形が良くないものもあると指摘されています。
川上 ここら辺ぐらいまで来ると、なんか今のね、審査講評と同じような言い方されるなと思ったりしますね。
第3回で検定成績が紹介された牛は、365日で11897キロを記録しています。川上さんは素晴らしいと評価しています。
島根県について川上さんは、ピラミッド式から円形に歩かせる審査へと比較的早く切り替えた県だと話します。都府県によって審査方法の切り替え時期に差があったこともわかります。
川上 島根県は結構早めにね、その円形審査を取り入れた県だそうだって。だから共進会にすごい熱心だった。
人工授精以前に、あの牛が生まれていた驚き
資料をたどると、改良の技術そのものの歴史も見えてきます。宇都宮仙太郎らが血統の明確なホルスタイン種牛を輸入したのは、100年余り前の1907年でした。これが日本のホルスタイン改良の起点になったそうです。
宇都宮仙太郎 明治から昭和にかけて活躍した酪農の先駆者。北海道でホルスタイン種の導入・改良に取り組み、日本の近代酪農の基礎づくりに貢献した人物として知られています。
1912年には、日本で乳を生産する乳用牛はホルスタイン種であると政府が政策として決定します。川上さんは「政府が言ったんだね」と、その事実に少し驚いています。
当時はまだ人工授精が実用段階になく、自然交配による1対1の生産の積み重ねだったため、改良の進みは今から見れば遅かったとされています。第1回全共の頃も、まだ人工授精ではなかったのです。
川上 だから人工授精じゃなかったのよ。あんな牛がね、生まれてるっていうのはちょっと衝撃だよね。
ホルスタイン改良と技術の歩み
1907年
宇都宮仙太郎らが血統の明確なホルスタイン種牛を輸入導入
1912年
乳用牛はホルスタイン種とする政府の政策決定
1951年
第1回全日本ホルスタイン共進会(神奈川県平塚市)
1965年ごろ
凍結精液の実用化が進み、改良の時代を迎える
2007年
乳器や姿勢を重視した審査標準へ改定
その後、1950年の家畜改良増殖法で人工授精の基盤が確立し、1965年頃には凍結精液が実用化されて、時間や距離の制約が取り払われました。牛群検定や受精卵移植も加わり、日本ホルスタインは世界トップクラスの生産能力まで引き上げられたそうです。
川上さんは昔の牛の写真を見て、禄(ろく)の張りがすごいと感じるそうです。粗飼料をしっかり食べ、よく運動していたからだろうと話しています。
体型審査の中身と、100点満点の内訳
話は現在の審査項目にも及びます。長命連産で高い泌乳能力を発揮する乳牛は、例外なく骨格や乳器、肢体などの体型が優れているとされています。
長命連産 1頭の乳牛が長く生き、産を繰り返して乳を出し続けること。育成にかかった費用を回収し、酪農経営に貢献するために重視される考え方です。
体型審査を補う仕組みとして、線形(選型)評価法があります。体型の特徴をより明確に表す方法で、1986年から実施されているそうです。川上さんは自分の生まれた年でもあり、35年ほどしか経っていないと話しています。
決定得点の内訳は、体貌と骨格が25点、肢蹄が20点、乳用兼性が15点、乳器が40点の合計100点です。乳器の配点が最も大きいことがわかります。
体型審査の決定得点(100点満点)
40点
乳器
25点
体貌と骨格
20点
肢蹄
資料には、6歳で乳量9500キロ以上という理想体型のツルタイプの牛が示されています。9500キロは低いと感じるかもしれませんが、無理に絞りすぎず、長く搾って経営に貢献し、産が進むほど体が充実していく牛が理想だという考え方です。
いい牛は買えない、飼養管理の集大成としての共進会
共進会の牛は、数値や血統さえ良ければそのまま勝てるものではないと川上さんは強調します。体型は日々の管理の作業効率にも関わる大切な要素です。
子牛の育成期の管理から、育成、乾乳、搾乳へとずっとつながって初めて、いい牛ができるといいます。その集大成が、共進会の会場に立つ牛だという考えです。
川上 簡単に、その血統が良くて体型がいい数値の高いやつをそのまま(共進会に)持って行ったら勝てるかって、そういうもんじゃなくて。
だからこそ、毎回いい牛を作れる人は、飼養管理そのものがすごいのだろうと川上さんは単純に感じると話します。その集大成がその共進会という言葉に、共進会をどう捉えているかが表れています。
いい牛を毎回作る人は、やっぱ飼養管理すごいんかなって普通に単純に思うよね。 ── 川上
共進会は美人コンテスト、それでも残る魅力
最後に川上さんは、共進会の本来の目的について語ります。今では「共進会はただの趣味でしょ」と思われがちだけれど、そうではないと言います。
共進会は、自分の牛群の改良にどうつなげるか、みんなと競い合ってどうやっていい牛を作っていくかを考える場です。それが本来の目的だと伝えたいと話しています。
どうやって自分のとこの牛群の改良につながるかとか、みんなと競い合ってどうやっていい牛を作っていくかっていうのが本来の目的だ。 ── 川上
自分は婿として牧場に来たため、子どもの頃から酪農に接してきたわけではなく記憶もないと川上さんは言います。だからこそ、こうして文章に残った歴史を読んでいくことをすすめています。
今はゲノムで数字がわかる時代だとも言われますが、表現としての体型は牛それぞれで全然違うそうです。川上さんは、有名な審査員の細野さんがYouTubeで話していた内容を紹介します。
長く飼えて経済的に貢献する牛はゲノムでわかるけれど、共進会は美人コンテストのようなもの。兄弟でも同じ顔ではなく、父も母も同じでもバラバラな個性が出て、その中から綺麗で優れた牛を選んでいく、という話です。
川上 兄弟が多いじゃん。みんな同じ顔してるわけじゃないじゃん。お父さんお母さんが同じでも、みんなバラバラな個性が出てきて。
そうした魅力があるからこそ、これから酪農をやっていこうと思う若い人たちに頑張ってほしいと川上さんは締めくくります。自分も頑張ると言い添えて、この日の配信を終えています。
川上 ぜひ若い人たち、これからやる酪農をやっていこうって思う人たちには頑張ってほしいなと。僕も頑張るけど。
まとめ
共進会の歴史をたどると、体高132センチの牛が70年ほどで別の生き物のように大型化し、審査のやり方や講評の言葉づかいも大きく変わってきたことがわかります。川上さんは、共進会を単なる趣味ではなく、飼養管理の集大成であり牛群改良につなげる場だと捉え、これから酪農を始める人にも歴史を知ってほしいと語りました。
- 共進会は明治から続き、平成にはナショナルショーへと発展し、審査員も酪農家の投票で選ばれるようになった
- 第1回全共の1951年当時は、田畑を耕す役乳兼用牛が出品され、体高も132センチほどと今よりずっと小さかった
- 昔の審査はピラミッド型で、講評も「遺憾であります」と地域を叱る厳しいものだった
- 人工授精以前の自然交配の時代から、凍結精液や牛群検定を経て、日本ホルスタインは世界トップクラスの生産能力に達した
- 共進会は美人コンテストのような側面を持ちつつ、飼養管理の集大成であり牛群改良につなげる本来の目的がある